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東京都美術館
東京都美術館
〒110-0007 東京都台東区上野公園 8-36


「エル・グレコ展」東京都美術館
「エル・グレコ展」東京都美術館
「エル・グレコ展」東京都美術館
「エル・グレコ展」東京都美術館
東京都美術館のリニューアルを記念して、没後400年を迎えるスペイン絵画の巨匠、エル・グレコ(本名 ドメニコス・テオトコプーロス、1541~1614年)は16世紀から17世紀にかけてのスペイン美術の黄金時代に活躍し、ベラスケス、ゴヤとともにスペイン三大画家の一人に数えられます。クレタ島に生まれ、ヴェネツィア、ローマでの修業を経てスペイン・トレドにたどりつき、揺らめく炎のように引き伸ばされた人物像が印象的な宗教画や、モデルの人となりをも描き出す独自の肖像画で、当時の宗教関係者や知識人から圧倒的な支持を得ました。ピカソら20世紀の巨匠たちからも、その作品は高く評価されています。


会期: 2013 1/19(土) ~ 4/7(日) 展覧会は終了しました。
開室時間: 9:30~17:30
(金曜日は20時まで、入室は閉室30分前まで)
休室日:
月曜日
会場:
東京都美術館 企画展示室


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「エル・グレコ展」開会式
「エル・グレコ展」 開会式
報道内覧会 1/18 '2013


日本初公開!高さ3メートルを超す祭壇画「無原罪のお宿り」登場
【展覧会の構成】
本展は初期のクレタ島時代の作品から、流行画家への足がかりとなった肖像画、工房を率いて多くの注文にこたえたトレド時代の宗教画、教会建築全体の空間演出も手がけていた最盛期の巨大な祭壇画に至るまでの多彩な作品を通じて、「神秘の宗教画家」という従来のイメージを超える、新たなエル・グレコ像に迫ります。
プラド美術館、ボストン美術館など、世界中の名だたる美術館やトレドの教会群から油彩およびテンペラ画51点が集結。高さ3メートルを超える祭壇画の最高傑作の一つ「無原罪のお宿り」も来日し、まさに「奇跡の集結」といえる国内史上最大のエル・グレコ展です。

Ⅰ-1 肖像画家エル・グレコ
-1 肖像画家エル・グレコ
El Greco, the Painter and the Portraitist
エル・グレコの肖像画の主要な新しさは、人体や衣服を形作る色彩と光、そして人体の動きを通じて、肖像画を描かれた人物の現実の似姿、つまり代用物として成立せしめた点にある。肖像は目線を合わせること、身ぶり、そして我々の目線の高さに配置されることにより確立される物理的・心理的距離の近さを通じて、観者とコミュニケーションを交わし、実在の人物のようにそこに現れるのである。

エル・グレコは“模倣”よりは“創造”に、または画家が解釈する現実を描くことに関心を抱いていたことを意味する。肖像画に正確な肉体的似姿を超えるものを描き出すことが求められた。その成功が「生き写し」という、ある種の生気溢れる肖像画への需要を生み出した。トレドの「名士たち」が、彼を自らの名声をカンヴァス上で不幸不滅にしてくれる画家だとみなしたことである。

Ⅰ-2 肖像画としての聖人像
-2 肖像画としての聖人像 Saints as Portraits
聖人たちの大半は同時代の衣装を着ているわけではない。彼らが古代、もしくは中世のものとみられる衣装をまとっていても、そのイメージは肖像画と呼び得るのである。肖像画の人物たちと同様、聖人たちは必要最低限度の動きとジェスチュアだけを伴い、彼らが生きている存在であり、一つの個性を持った一人の人間であることを知らしめている。

おそらく収入の大半は、聖人像の様に量産される既成の宗教画の類を、トレドとその近郊の町の教会や修道院などに売ることで賄われていたのだろう。近年発見された記録から、彼がしばしば経済的に困窮していたこともわかっている。こうした状況から、肖像画は貴重な収入源でもあったのだろう。また、彼の天才画家としての名声の多くは、肖像画を描き上げる能力に拠っているようである。

Ⅰ-3 見えるものと見えないもの
-3 見えるものと見えないもの The Visidle and the Invisible
エル・グレコは周囲の人々や諸聖人を生きた肖像として絵画化する一方、天上世界や内的幻視など、目に見えず、心に浮かべるしかない架空の世界を見えるイメージを介して描き出した。エル・グレコ作品において時に 「見えるもの」 と 「見えないもの」 は、一見、シンプルな画面に共存している。キリストの身体は [生身の人間である聖母マリアに対して] 死と復活を経た 「天上の体」 であるため、厳密に言えば肉体性を有していない。

エル・グレコの人間美の探求は、彼のキリスト、聖母マリア、聖人、そしてとりわけ天上の存在、つまり天使、浄福者や目に見えぬ存在の美の追求にも影響を与えていることは疑いの余地がない。エル・グレコの作品における見えるものと見えないものの世界の融合は、神聖なるものが地上世界に入り込む主の公現に関連する場面において顕著に見られる。

Ⅱ クレタからイタリア、そしてスペインへ
Ⅱ クレタからイタリア、そしてスペインへ
From Crete to Italy and Spain
ギリシア人ドメニコス・テオトコプーロス(本名)は、1550年代末頃に、 生地クレタ島の「親方画家」として、ビザンティン様式にイタリアや西欧の絵画様式を取り入れたイコン画の制作を始めた。その後、ヴェネツィアとローマに渡ったエル・グレコは、より自然主義的な色彩と光による現実の描写、および解剖学や三次元性、短縮法、遠近法に基づく身体と空間の表現に出会い、自らの絵画様式を一新した。

クレタからイタリア、そしてスペインへ。トレドのビリェーナ侯爵の邸宅に住まいを見出すまで西へ西へと移動したが、計画してそうした訳ではなかった。16、17世紀の多くの芸術家と同じように(エルスハイマーやカラヴァッジョ)、旅する芸術家/職人だったのである。旅をし、学び、自らの糧にするために大小の仕事を請け負った。そして「最上の祖国」 スペインで、世界に知られる作品を生み出した。その才能と個性の最高の部分を引き出したのは、スペインの環境であった。

Ⅲ トレドでの宗教画:説話と祈り
Ⅲ トレドでの宗教画:説話と祈り
Devotional Images in Toledo: Telling Stories
エル・グレコは肖像に描いた周囲の人々のみならず、数多くの聖人を祈念像として身近な場面の中に表した。その表現は、彼の確固たる考えに基づくのであろう。エル・グレコは、崇高ながらも時に観者を見つめ返し、その視線に応えるほどに親しみやすい半身の聖人像を生み出した。彼らは我々と同じ身体を持つ人間として、それぞれに身ぶりや個性を与えられている。つまりエル・グレコは、それまでの冷やかで格式ばった、よそよそしい聖人像に生命を吹き込んだのである。

宗教主題の中にはキリストや聖母マリア、諸聖人の単身像を崇敬と祈りのために供するのみならず、彼らにまつわる説話を伝えるべきものもあった。それらは時に、単独の聖人像として表されながら、同時に説話画としても機能していた。それらの作品においてエル・グレコは、聖書の物語を実際に起こり得たように、その光景を思い浮かべて描いている。

Ⅳ 近代芸術家エル・グレコの祭壇画:画家、建築家として
Ⅳ 近代芸術家エル・グレコの祭壇画:画家、建築家として
The Altarpieces of a Modern Artist: Painter and Architect
当時の信仰の個人的というより集合的な形として、祭壇に全身像の聖人を表すことは極めて一般的であった。彼らは信者の神への祈りをとりなす役を担い、聖なる者に必要な距離と荘厳さ、それに肉体的存在感を伴って表された。というのも、当時の信者たちは彫刻像で表された聖者――木製の祭壇衝立の壁龕に立つ者も多く存在した――に向かい合うことに慣れていたからである。

エル・グレコが構想していた自らの仕事は、舞台芸術家、演劇の監督またはオペラの演出家のそれに例えられるだろう。それは複合的、総合的な見せ物であり、宗教儀礼において視覚的効果に嗅覚的、聴覚的効果が交わるとき、その効果は頂点に達する。礼拝堂にはお香の匂いが立ち込め、単声複声の歌声、鐘やベル、オルガン、そして縦笛の音が響き、その中で儀式用の衣装を着た司祭が祈りを捧げる。彼の絵画作品は本来、このような環境において光彩を放つていたのである。


エル・グレコ《芸術家の自画像》
エル・グレコ 《芸術家の自画像》 Self-portrait (Portrait of a Man?)
1595年頃 油彩、カンヴァス 52.7 x 46.7cm メトロポリタン美術館、ニューヨーク
© The Metropolitan Museum of Art, Purchase, Joseph Pulitzer Bequest, 1924 (24.197.11)
「…彼自身の肖像画にはローマ中の画家が驚嘆しました」。1570年、細密画家ジュリオ・クローヴィオ(1498-1578)は、ヴェネツィアからローマへ来たエル・グレコについてこう記した。
「年 表」 エル・グレコの生涯 (1541-1614)
1541年 ギリシ、クレタ島のカンディア(現イラクリオン)に生まれる。本名はドメニコス・テオトコプーロス。父ヨルギは税関史だった。
1567年 おそらくこの年の中頃、イタリアのヴェネツィアへ渡る。ティツィアーノの工房かその周辺で西欧絵画の技法を習得する。
1570年 ローマへ赴く。11月16日、細密画家ジュリオ・クローヴィオが手紙でファルネーゼ枢機卿にに「カンディア生まれの若者で、ティツィアーノの弟子」(エル・グレコのこと)を推薦。おそらくその直後からファルネーゼ家に寄寓する。
1578年 内縁の妻ヘロニマ・デ・ラス・クエバスとの間に息子ホルヘ・マヌエル生まれる。
1580年 5月11日、スペイン国王フェリペ2世から注文作《聖マウリティウスの殉教》(エル・エスコリアル修道院)のための最初の支払いを受ける。《聖衣剝奪》の報酬金額に関しトレド大聖堂側と合意が成立する。
1585年 9月10日、トレド市内のビリェーナ侯爵宮内に台所、中庭付きの3室を借りる(1590年までとその後1604年以降)。
1596年 マドリードのドニャ・マリア・デ・アラゴン学院聖堂の祭壇画および同衝立制作の契約を結ぶ。
1603年 6月18日、イリェスカスのカリダード施養院のための祭壇画および同祭壇衝立の制作の契約を結ぶ。この年、息子ホルヘ・マヌエルが父の助手として初めて記録に登場。
1607年 3月17日、カリダード施養院と報酬金額に関し合意が成立する。12月11日、トレドのサン・ビセンテ聖堂オバーリェ礼拝堂の祭壇画および同衝立制作の契約を結ぶ。
1614年 3月31日、息子ホルヘ・マヌエルに遺言状の作成、葬儀の手配、借金返済を一切委任する。4月7日、サント・トメ聖堂の死亡者名簿にエル・グレコの名が記載。死去が確認(73歳)。遺体はサント・ドミンゴ・エル・アンティグオ聖堂に埋葬される。
エル・グレコの私生活は、この芸術家の人物像をめぐる数多くの謎のうちの一つであり続けている。トレドでの生活において、エル・グレコが密接な関係を築いた唯一つの女性は、息子ホルヘ・マヌエル・テオトコプリの母ヘロニマ・デ・ラス・クエバスであるようだ。彼女の名前は、記録に登場する唯一の名前であり、それは、エル・グレコが息子ホルヘに作成の権限を与えた1614年3月31日付の遺言書の記録において、ただ一度だけ、登場したのであった。

お問合せ:03-5777-8600 (ハローダイヤル)
展覧会公式サイト:http://el-greco.jp/
美術館サイト:http://www.tobikan.jp/
主催:東京都美術館(公益財団法人 東京都歴史文化財団)、
NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社

後援:外務省、スペイン大使館
協賛:損保ジャパン、大日本印刷、竹中工務店、ソフトニック
協力:スイス政府観光局、エールフランス航空、全日本空輸

参考資料:Press Release、「エル・グレコ展」カタログ他。
※写真撮影の掲載は、主催者の許可を得て行っております。


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